www.19780127.com SHUGO YANAKA OFFICIAL WEBSITE
M O M E N T U M
人生には、自らの成長を大きく加速させる“きっかけ”というものがある。それは、まさに波の如し。気づいたら乗っていた波、否応なく巻き込まれた波、自らの意志で乗った波…。そんな数々の波のなかにも、メモリアル・ウェーブというものがある。MOMENTUM ― それは、人生に彩りを与えてくれた味わい深い波の記憶といえるのかもしれない。
◆マリンバを通じて開かれた音世界への扉 (1981)
3歳の頃に母親と一緒に始めたマリンバ。楽譜を読むのには馴染めなかったが、音・リズム・スピードなどを全て耳で覚えるのは楽しく容易だった。そのため、後で楽譜を解析し直さなくて済むように、先生が見本を示すタイミングで全て耳と手の動きで覚えることに集中していた。結果として、無意識のうちに聴覚を発達させることになるとともに、あらゆる音に対する強い好奇心が形成される。
◆世界への視野を広げた寺子屋英語 (1985-89)
小3の頃、家から車で5分程度のところにあるお寺で英会話教室をやっているとの情報を母親が聞きつけ、寺の敷地内の一角で行われるレッスンにノリで通うことになった。1対1で個人レッスンをしてくれるのは御住職ではなく、その奥様でポーランド人のエリザベス先生。“音感”で英語に親しめたからか、小6の時には高3までの英語課程を修了し、世界に目を向ける足がかりとなる。
◆クラス活動を通じて経験した“人の持ち味”を活かす創意工夫 (1986)
1学年2クラスのかわいらしい良き田舎の公立小中学校で、事の成り行きで学級委員・児童会・生徒会というものを経験する機会を頂いた。クラスの席替えといった小さな決め事から学校行事に向けた割と大きな決め事まで、みんなの意思決定をまとめる力になれるのが嬉しかった。次第にみんなの持ち味を引き出す創意工夫を実験するようになり、後に自身のビジョンを形成する重要な原体験となる。
◆『風の谷のナウシカ』からのインスピレーション (1988)
10歳前後の頃にテレビで『風の谷のナウシカ』を見たのをきっかけとして、自分が心の中で形成していたビジョンのパーツがイメージとして繋がった。描かれていた「風の谷」に「人も自然も等しく愛し、その良さを引き出し、お互いをリスペクトする精神」を感じ取り、自分がやりたいと思ってきたことは風の谷のような世界を実現することだと意識するようになった。これが、「風の谷構想」の着想となる。
◆レオナルド・ダ・ヴィンチにヒントを得た創造的思考法 (1990)
中学に入って歴史資料集で中世ヨーロッパのページを開いていたとき、『ルネッサンス』『万能人』『レオナルド・ダ・ヴィンチ』というキーワードが強烈に目に飛び込んできた。レオナルドの生き方・思考法・作品などに超越した何かを感じ取り、風の谷構想を実現するには彼の動きに学ぶところが大きいと察した。以後、彼の手稿にヒントを得て、構想実現向けたアイデアノートを綴り始めることになる。
◆『元気が出るテレビ』で啓発されたプロデューサー・マインド (1991)
中2くらいに夢中になって見ていたのが『天才たけしの元気が出るテレビ』。理屈抜きに心底おもしろいと初めて思った番組で、人をつい夢中にさせてしまう企画に深い感動を覚えていた。もしかすると社会を動かすムーブメントの鍵はこれにヒントがあるかもしれないと直感し、プロデュースの観点から多大なる示唆を得た。これが後に様々なプロデュース活動を展開する際の原点となる。
◆高校生活謳歌の背後で増幅した違和感 (1993-95)
同じ顔ぶれで9年間過ごした1学年2クラスの小中学校生活から、多様なバックグラウンドをもつメンバーで過ごす1学年10クラスの高校生活へ。多感な時期の環境変化のもと次々と出現する新たな事象の面白味を享受する一方で、次第に自分の高校生活に何か説明できない違和感が増幅していった。その違和感が何たるかを解明できないまま高3の大学受験に突入し、受験が殆ど放棄状態となる。
◆再生への序曲 (1996)
高校卒業後、ゼロベースに立ち戻りたいと思って手にしたのがマリンバのマレットだった。演奏を再開する中で、抱えていた違和感が“自分でない自分であろうとしていた”ことに起因するものと気づき始め、見失いかけていた「風の谷構想」を思い出した。奇しくも、人の持ち味を活かすという構想コンセプトの深遠さを身をもって体感することになり、ビジョンを再構築する“再生への序曲”となる。
◆SFCをプラットフォームとしたマルチトレーニングの幕開け (1997)
自身の構想実現に向けた再スタートの場として「自由に幅広く実践的な学びを得られる環境」がないものかと探したところビンゴしたのが、慶應SFCだった。当時はマイナーだったAO入試の存在を知り、構想を言語化してアプライすると合格。97年からフルスロットルでSFC生活がスタートし、多様な人々・講義・サークルなど全てが学びの糧となり、自身の資質を鍛錬する最高の環境となる。
◆ラジオDJ×ダンスで引き出されたクリエイテビティ (1997)
クリエイティビティを刺激する場に身をおきたいと考えていた矢先に新歓シーズンに出会って所属することになった2つのサークルが、飽くなき創作活動の追求にドライブをかける重要なプラットフォームとなった。それが、FMラジオ番組を制作する音像工房とダンスサークルのW+I&S。番組・舞台のために全エネルギーを投入して熱中した創作活動の経験が、後にプロ活動に繋がる原点となる。
◆インド半拉致事件を通じた本能の覚醒 (1998)
世界を体感したいとの思いから、親友と二人で初海外&初飛行機にてインドへ。Air Indiaで深夜にニューデリーに到着後、カモを狙うようなインド人の視線に恐れをなし、ドライバーと名乗る優しげな兄貴のタクシーに乗るとギャング一派と判明。オールドデリーに連行されて屋根裏に軟禁された。一晩明かして翌朝、なんとか脱出に成功したのだが、ここから平和ボケしていた本能の覚醒が始まる。
◆ロバート・ハリスさんとの出会いによる安全装置の全面開放 (1998)
インド帰国後に制作した旅行記サイトを見てくれたラジオ番組制作会社のプロデューサーさんが、番組ウェブサイトのデザインの仕事で声をかけてくれた。その番組がJ-WAVE "SENSE&EMOTION"で、ナビゲーターを務めていたのがロバート・ハリスさんだった。そのワイルドな旅人人生を知り、スタジオでハリスさんに実際に会ったことで、20歳のエクストリーム・チャレンジに完全なスイッチが入る。
◆マリンバで刻んだ二十歳の足跡 (1998)
エネルギー全面開放のトランザム状態となり、作曲家連盟が主催するオーディションに母親とダブルでエントリーして合格。作曲家・平田聖子氏にダブルマリンバのオリジナル曲を作曲して頂き、マリンビスト鬼頭佳代子先生に師事しての集中レッスンを経てコンサート演奏を果たした。後にこの曲は様々なアーティストに演奏されることになり、自身にとって確かな二十歳の足跡となる。
◆ZIP-FM DJコンテスト受賞を契機とする本格的表現活動の始まり (1998)
音像工房でFMラジオ番組制作部門の責任者となり、制作会社並みに番組制作に没頭するなかで、偶然にZIP-FMミュージック・ナビゲーター・コンテストを知ってデモテープを送った。勢いで3次の審査を通過してシルバー・グランプリを受賞するに至り、プロの現場でオンエアー・デビュー。これをきっかけにDJ事務所FM Birdと出会い、大学2年後半からDJとして本格的なプロ活動が始まる。
◆補習が引き寄せたご縁―ドワイト・クラークさんとの出会い (1998)
課外活動で動きまくっていたため、英語の必修単位に赤信号が点灯して補習クラスへ。同じ境遇のエグザイルス5-6人でのミニ補習は英語フリーディスカッション。ひたすらインド話で盛り上げていると、どこからともなく"Can I join?"とスキンヘッドのアメリカンが入ってきた。妙にノリよく話が合って意気投合。後で、スタンフォード大NGO創設者ドワイトさんであると知る。これが師との出会いになる。
◆ドーム×デジットとの出会いを通じた起業の学び (1999)
大学3年の頃、友人の紹介でベンチャー企業に出会った。スポーツを基軸にアパレル・サプリメント・メディカル事業を展開する株式会社ドームと学生インターンシップ斡旋事業を手がけるデジット株式会社。自身の創作活動の実績を評価して頂き、会社でアート・ディレクションを中心とした仕事を次々とこなした。創業期に社長の近くで経営者の動きを学び、起業に着目するきっかけとなる。
◆朝霞・彩夏祭に見た地域における構想具現化のイメージ (2000)
親友からの誘いでMC参加していたよさこい祭りのつてで、朝霞・彩夏祭「関八州よさこいフェスタ」のメインMCを2000年から6年間も務めさせて頂くご縁を頂いた。世代や職業を超えてチーム一丸となって舞台で踊り、競い合い、讃え合い、乱舞する…。地域の中で祭りを通じてお互いの良さが引き出されたエネルギーを毎年会場ど真ん中で体感し、風の谷構想の具現化のイメージに確信をもつ。
◆スタディープログラム参加からNGO人材育成活動へ (2001)
卒業に必要な単位取得のために大学4年の最終学期に講義に出まくっていると、とある講義に見覚えのある人がやってきた。ドワイトさんだった。彼が設立したスタンフォード大NGOの提供する海外スタディープログラムの告知で、縁を感じてビラを受け取り参加した。実体験ベースの教育プログラムに構想具現化の輪郭を見い出し、以後、ドワイトさんのもとでNGO人材育成活動に邁進することになる。
◆JAZZレストラン"DEAR LORD"マスターとの対談からの示唆 (2002)
NGO活動に邁進しながら大学院生活を送るなか、当時住んでいた湘南台の家の近くで見つけたJAZZレストラン"DEAR LORD"に通い始めた。物理学を専門とする研究者の前身をもつマスターとの対話が刺激的で、店のカウンターが自分の啓発の場となった。自身の将来構想についてマスターと対談していたとき、強い薦めを頂いたのが松下政経塾。その一言がきっかけで塾を知り、志願することになる。
◆松下政経塾での修行を通じたリアルな世界の認識 (2003)
マスターから塾の薦めを受けた後、初めて松下幸之助塾主の設立趣意書を読んで深く共感し、自身の「風の谷構想」に基づいて命名した「天分を発見して活かす社会の創造」を研修テーマに志願、合格した。個性的な同期8人での全寮制生活で寝食をともにしながら、世の中のブライトサイドとダークサイドの双方を体感的に学び、社会変革を成し遂げる上で必要な“リアルな世界の認識”を得る。
◆NPOキーパーソン21におけるキャリア教育の事業化 (2004)
風の谷構想の重要な柱を“人の特性を引き出す人材育成”と位置づけ、高校時代にしたためていたアイデアに基づいて、キャリア教育プログラムのシナリオを作成した。直後、志を同じくするNPOキーパーソン21に出会い、自身のシナリオを組み込んでプログラムを体系化した。小中高の現場で実践を繰り返し、経済産業省のモデル事業化に成功、構想を実現する教育分野の全体像が見え始める。
◆Young Leaders Summitでの士気高揚と同志との出会い (2006)
キャリア教育事業化の取組とメディアを通じた啓発活動に評価を頂き、アジア各国の若手リーダーが集うサミットの日本メンバーとしてソウル開催のカンファレンスに参画した。アジアを動かしていくキーパーソンに出会い、世界を渡り歩くプロフェッショナリズムを究めたいと士気高揚。このとき、偶然にバスで隣り合わせになったGoogle創業期メンバーのマックスと意気投合、一緒に活動することになる。
◆Booz Allen Hamiltonで高められたプロフェッショナリズム (2006)
サミットから帰国後、グローバルな展開を見据えて自身の構想実現を図るためにマネジメントのプロフェッショナリズムが必要と考えていたとき、世界的に政府機関および民間企業の戦略立案・実行支援に豊富な実績をもつ戦略コンサルティングファームBooz Allen Hamiltonに出会い、メンバーに加わった。約3年半にわたって多種多様の経営課題解決に身を置き、ソロ活動に向けた重要な知見を養う。
◆地球一周☆構想アップデート (2009)
大学入学後12年間=1周期の鍛錬期間が最終フェーズに入り、着想から20年余の「風の谷構想」具現化への着手が近づいてきたと感じ、一人で世界各地を渡り歩いて構想の知見を集める地球一周を決行した。iPhoneを片手にSkype会議で仕事を回しながら地球を西に回ること2ヵ月半で15ヶ国、様々な文化圏で得た知見を統合しながら構想のアップデートを進め、一人ワクワク感を募らせる。
[Top] [Profile] [Philosophy] [Vision] [Profession] [Momentum] [Essay] [Challenge Seriese] [Media Coverage]
Copyright (C) 2006. www.19780127.com. All Rights Reserved. No reproduction or republication without written permission.